大丈夫、大事な物は変わらずそこにある


日々の生活で、喜怒哀楽さまざまな感情を揺さぶられる出来事がおこる。

楽しくてワクワクできることならいいけど、
そうではなく、苦しさ、悲しさ、怒りという感情は
なるべくなら避けたいと思う。

私の考えはこんなかんじだった。

出来るだけ、嫌だと思う感情から逃げていた。
そして、押さえたり、または、どう制御することもできず、
行き詰まる方へただ視野狭く意識も下降してしまった。
ダークな夢を見続け、心はずたずた。
そして、底辺についた頃に、ようやく自分の位置に気づく。

まあ〜ずいぶん深い底まで来た事!
ここじゃない、自分が行きたい場所は。
それそれ〜っ

自分の向かいたい方へ自然と向かう。
心が上昇すると、この下降も実は無駄じゃなかったと思える。
むしろ、下降がなければ、上へあがろうとしなかったかも?

思考や、世間体や環境、周りの人の噂、教育、情報操作
色んな縛りの中で暮らしていることに気がつく。

そして、その縛りは、自分が自分の意志で
心地の良い場所へ向かう為には必要だったのだと思う。

自分を陥れようとしていると思う出来事、
誤解やすれ違いで、傷つき、苦しんだ出来事にも
実際にはその裏に素敵なメッセージを含んでいる。

お互いを良く知り合える切っ掛けとなって、
自分の固定概念を一つひとつ壊させてもらえるのだ。
自分を省みる時間や
内観する時間を経て前に進める。

一見傷つくような苦しい出来事かもしれないけど、
その本質は、だれも傷つかないものなんだ。
すうーっと心に入り込んで、心の肥やしとなるもの。
「大事なモノは目には見えない」とはこういうことで、
非常に分かりにくいものだ。

それが本質、真理なんだな〜
と最近よくおもうのです。

この仕組みを踏まえて、
人と向き合う時には、なるべくその人の表面を
見るのではなくて、内側にある本質を見るようにしたい。
すべてにおいて本質をみるようにしていたら
この世には、自分が嫌だと思う出来事が起こりえないような気がしてきた。

嫌な物から逃げようとしたり、人のせいにして片付けたり.
大事な物をみつめる機会がなかったら
ず〜っと嫌だとおもい続けながら、
表面的な、本質ではないものに心を乱され続けていたかもしれない。

本質ではない物は幻想とおなじ。
幻想に対して、おこったり、悩んだり、悲しんだり
するのは無駄だなあ。

自分や周りが傷つくようなことは
起こりえないと思うと、心を落ち着かせて
事の成り行きを待つ事ができる。
もっともっと楽しもうと動けるようなきがする。

私個人は、人の噂が怖いとおもっていた。
ある事ない事、自分が色々言われているのが分かったとき、
こわくて、悔しくて、もやもやとしていた。
でも、もう自分の本質はなにも傷つく必要がないとわかったから。
言いたい人に、言ってもらって、不満などを解消してもらたらいい。
真実ではないことを、好きなだけ言ってもらっていいと思った。
これで誰も傷つかない☆
噂好きな人を変えようとも思わない、
変える必要もないのだから。
解釈のちがいって、人生を左右するほどでかいものだとおもった。

もう大丈夫、大事な物は変わらずそこにある。








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